第三者的独立的存在の必要性
第三者的な人間が利害関係のある2者に対して仲裁をする。連想するのは。
天秤の上に2人を乗せてどっちが重いかなぁと、もう一方に持った法規を元に判断するイメージ。
ゼリィを均等に分けてあげよう、と仲裁した狼が結局ゼリィを平らげてしまうという何かの童話のイメージ。
もしくは、ひょうきん族のエンディングでキリストをパロディした男がバツを手で出すと水が振ってくるようなイメージ。ん?彼は単にマルバツ出して評価してただけでないか。
昨今の第三者的独立的な存在の典型的で代表的な存在は法・司法になる。
この法の第三者的な立場である権威の根源について歴史をさかのぼれば、各文化圏によって異なる。詳しくは橋爪先生の「人間にとって法とは何か」あたりを参照していただくことにして。一方では神が裁く、というような絶対的な存在をよりどころに仲裁を行う(んまぁ、実際に仲裁するのは人間なんだけど)例がある。一方で、日本戦国時代では「喧嘩両成敗」といった、その時代の権力者が「まぁ、おまいらオレのショバでもめんなや。」と相対的に強力な立場が仲裁する例がある。
一方で、利害関係が対立する組織間の齟齬を生めるために偶発的もしくは恣意的に生まれるものもいる。
個人的に偶発的に生まれれた例がメディアで、恣意的に生まれたのは監査(とくに会計監査)だとおもうんだけど。メディアは誕生が偶発的というか、利害関係の中で語られることはないが、いつの間にか仲裁的な立場を持ちしかも独善的になっている気がするが、それはまぁ、おいといて。会計監査というのは「おい、お前オレの代わりに代弁してうちの決算が正しいって証明してよ」とか、「ねぇ、私たちの代わりにあの会社の決算が本当に正しいか見てくんない?」という、利害関係者のうち誰かが必要としてそれを依頼する(恣意的に存在を求める)からこそ制度として成り立っている。
法やメディアの必要性ってどこから出てくるのか。これを紐解くと、もしかしたらシステム監査の必要性って今後高まるのか否かを判断する材料になるのかもしれない。
司法はその天秤にかけたいと願う人があってこそ必要となる。刑事訴訟であれば国家の平安を守る警察であるし、民事であれば利害関係者となる。まぁ、つまり「法律」だけがあってはなんら「制度」としては役に立たない。
監査も同じで、監査の基準があっただけでは無駄だ。誰かがマルバツ出す青白い頼りないパロった男の前に出してほしいと願う人がいないと、無駄だ。さて。誰がそれを願うのか。
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